神戸市灘区、阪神岩屋駅前:虫歯をはじめ、歯とお口の病気予防に強い歯医者さん

電話予約
診療時間
アクセス
新型コロナウイルス

102年前の記録

国立感染症研究所のHP
102年前に世界中を震え上がらせたパンデミック
スペインインフルエンザ(いわゆるスペイン風邪)についての説明があります。

当時は第一次世界大戦の最中でしたから
ダブルの戦禍が襲い掛かったようなものです。
今の新型コロナよりも遥かに凄まじい状況だったのでしょうね。

で、記述を見てると不思議なんですが
ここでも日本の致死率は他国と比べて低いのです。
前回の記事と違い、人口全体ではなく感染者の中の死亡率ではありますが
諸外国との比較の話ですので、ほぼ同様の割合となると予測されます。


( 100年前も、今と同じ事に留意して拡大防止に努めたのですね。 )

約100年前の統計ですから、勿論誤差はあるでしょう。

ですが、日本人の致死率の低さはやはり群を抜いています。
世界の感染者は5億人、死者は4000万人~1億人。
日本の感染者は2300万人、死者は40万人。
諸外国に比して5分の1から10分の1の数値になります。

これは単なる偶然かもしれません。
前回の記事で書いたように、この時も日本だけが何らかの経緯で
ある程度の集団免疫を獲得できていた可能性もあります。

ですが、もしかしたら世界をパンデミックに陥れるレベルのウイルスに対しては
そもそも我々日本人は重症化しにくいDNAか何かを持っているのかもしれません。
普段の食生活や習慣に重症化しにくい要素があることも考えられます。
どちらにしても、もしそうなら嬉しい事です(笑)

(引用ここから)
第一次世界大戦中の1918年に始まったスペインインフルエンザのパンデミック
(俗に「スペインかぜ」と呼ばれる)は、被害の大きさできわだっています。
世界的な患者数、死亡者数についての推定は難しいのですが
患者数は世界人口の25-30%(WHO)
あるいは、世界人口の3分の1(Frost WH,1920)
約5億人(Clark E.1942.)で
致死率(感染して病気になった場合に死亡する確率)は
2.5%以上(Marks G, Beatty WK, 1976; Rosenau MJ, Last JM, 1980.)
死亡者数は全世界で4,000万人(WHO)
5,000万人(Crosby A, 1989; Patterson KD, Pyle GF, 1991; Johnson NPAS, Mueller J, 2002.)
一説には1億人(Johnson NPAS, Mueller J, 2002.)ともいわれています。

日本の内務省統計では日本で約2300万人の患者と約38万人の死亡者が出たと報告されていますが
歴史人口学的手法を用いた死亡45万人(速水、2006.)という推計もあります。
スペインフルの第一波は1918年の3月に米国とヨーロッパにて始まりますが
この(北半球の)春と夏に発生した第一波は感染性は高かったものの
特に致死性ではなかったとされています。
しかしながら、(北半球の)晩秋からフランス、シエラレオネ、米国で
同時に始まった第二波は10倍の致死率となり
しかも15~35歳の健康な若年者層においてもっとも多くの死がみられ
死亡例の99%が65歳以下の若い年齢層に発生したという
過去にも、またそれ以降にも例のみられない現象が確認されています。
また、これに引き続いて、(北半球の)冬である1919年の始めに第三波が起こっており
一年のタイムスパンで3回の流行がみられたことになります。
これらの原因については多くの議論がありますが
これらの原因については残念ながらよくわかっていません。
1918年の多くの死亡は細菌の二次感染による肺炎によるものであったとされていますが
一方、スペインフルは、広範な出血を伴う
一次性のウイルス性肺炎を引き起こしていたこともわかっています。
非常に重症でかつ短期間に死に至ったため
最初の例が出た際にはインフルエンザとは考えられず
脳脊髄膜炎あるいは黒死病の再来かと疑われたくらいです。
もちろん当時は抗生物質は発見されていなかったし、有効なワクチンなどは論外であり
インフルエンザウイルスが始めて分離されるのは、1933年まで待たねばならなかったわけです。
このような医学的な手段がなかったため、対策は
患者の隔離、接触者の行動制限、個人衛生、消毒と集会の延期といった
ありきたりの方法に頼るしかありませんでした。
多くの人は人が集まる場所では、自発的にあるいは法律によりマスクを着用し
一部の国では、公共の場所で咳やくしゃみをした人は罰金刑になったり投獄されたりしましたし
学校を含む公共施設はしばしば閉鎖され、集会は禁止されました。
患者隔離と接触者の行動制限は広く適用されました。
感染伝播をある程度遅らせることはできましたが、患者数を減らすことはできませんでした。
このなかでオーストラリアは特筆すべき例外事例でし
厳密な海港における検疫、すなわち国境を事実上閉鎖することにより
スペインフルの国内侵入を約6ヶ月遅らせることに成功し、そしてこのころには
ウイルスはその病原性をいくらかでも失っており、そのおかげで、オーストラリアでは
期間は長かったものの、より軽度の流行ですんだとされています。
その他、西太平洋の小さな島では同様の国境閉鎖を行って侵入を食い止めたところがありましたが
これらのほんの一握りの例外を除けば
世界中でこのスペインフルから逃れられた場所はなかったのです。

(引用ここまで)

関連記事

最近の記事

アーカイブ

PAGE TOP